フェアリーは悪を殺すのか

第六世代ポケモンで、フェアリータイプという新しい要素が追加された。ゲーム上では、それまで強力だったドラゴンや格闘に対して有利なものとして設定されたが、この新しいタイプは一体どのような意味を持つものだろうか。既存のタイプのイメージも踏まえて、タイプの持つ意味を考察してみたい。

 
ドラゴンは、ポケモンにおいては神聖な生き物という設定があった。ゲーム上におけるドラゴンは強力で、ドラゴンタイプに対して一方的に有利なタイプというものは存在しなかった。これは、誰にも逆らえない絶対的な力の象徴として捉えることができるだろう。
格闘タイプは、悪タイプに対して一方的に強く、特に第五世代では正義の象徴として描かれた。この相性関係は典型的な勧善懲悪のイメージで捉える事ができ、格闘は正義を象徴すると考えられる。

神聖で絶対的なドラゴンを宗教、正義を執行する格闘を国家と考えれば、このふたつの影響力が大きかったのが二十世紀までの世界秩序であった。そして、それはドラゴンと格闘の影響力が強かった第五世代ポケモンにおけるゲーム上の対戦環境の秩序でもあった。

しかし、これらふたつの力のなす秩序の正しさは疑われ続けてきた。宗教や国家の暴力を封じるために政教分離憲法などの制度が作られたが、それでその暴走を完全に止められたわけではない。例えば宗教戦争は、宗教的戒律に反する危険な社会を弾圧するという形で多くの犠牲を出している。一方で国家権力も、既存の経済体制の保持を理由に新しいビジネスを潰してしまったりする。これらは現代でも続いていて、そういう政治に疑いの目が向けられている。

このような宗教や国家の暴走の背景にあるのは、経済のグローバル化自由貿易)やインターネット(自由な情報交換)で、要するに「自由」な発想で新しい秩序をもたらそうとするものに、旧秩序が脅かされ、反発しているという見立てが可能ではないだろうか。

一方、第五世代ポケモン対戦においても、強力なドラゴンと格闘の暴力に多くのポケモンが圧倒されていた。しかし第六世代では、それらを脅かす存在としてフェアリータイプが登場した。つまりフェアリーは、グローバル化やインターネットのような「自由」の象徴であると考えることができる。また、ネットの普及やグローバル化は止められないように、自由な「自然」状態に任せ、放っておけば「自然」にそうなるものと捉えれば、「自然」を象徴しているとも考えられる。非自然的な毒や鋼といった人工的なものにフェアリーが弱いという設定も、これで統一的に理解できる。

ところでこのフェアリータイプは、ゲーム上では悪タイプに対して一方的に有利な設定になっている。まるで格闘タイプのような設定だが、これはどういうことだろうか。

そもそも悪とはどういうものだろうか。正義が悪と定義しているものには、ネット上の著作権侵害ハッカー集団に見られるように、旧秩序の都合で悪とされているものも多い。こういう悪が一定の支持を集めているのは、そこに何かしらの合理性や生産性、その礎となる哲学といったものがあるからだろう。これは、悪タイプのポケモンに独特のかっこよさやカリスマ性を感じられるものがいる感覚と似ている。

これらの悪とされたもの達を、グローバル化やインターネットは、まるで正義の国家権力と同じように懲らしめたりするのだろうか。
自由や自然の力が悪の哲学を否定するとは考えにくい。むしろ悪を寛容に受け入れ、宗教的教義や政治的正義から解放し、その哲学を良い形に変えるのが自由の象徴フェアリータイプに期待される役割だ。その意味で、ポケモンのようなコンテンツも、それを通して「悪」い人とも良い形でコミュニケーションをとれるきっかけになるかもしれない、フェアリーのような可能性を秘めている。

こう考えると、フェアリーが悪の弱点を突いてしまうのはおかしい。フェアリーは悪を一方的に傷つける存在ではなく、悪が本来そのコアに持っている魅力を引き出す存在として描くべきで、それがポケモンを通して語るべきリアリティではないだろうか。